【100日100話】012 白神と捧げの少女

   

 燻し草を積めた豚の器から、ゆるゆると煙が昇っていく。

 都の方では蚊遣りのための線香ができたと聞くが、山すその集落までは出回っていないらしい。

 ――このにおいに慣れてきたってのは、まずいような気がしなくもないが。

 自分だけならば蚊遣りの術などいらないのだ。本体の皮の強さもあるが、神霊の血をあえて欲する虫はまずいない。神威というよりは、生臭としての力が足りないのだろうと自分では思っている。

「ただいま戻りましたあっ」

 蚊遣りの理由が入り口で声を張り上げる。火薬と血と、瑞々しく若い女のにおいが煙に混じって、自然ため息がもれた。

「今日はすごいですよ、兎を三羽しとめました。汁物と干し肉にしましょうね」

「暑いのに元気だね……」

「あら、白神様はまた干からびてんですか。ちゃんとお水飲まなきゃだめですよ、元は長虫なんですから」

「せめて蛟(ミズチ)って言って……」

 ささやかな抵抗もむなしく湯冷ましを飲まされる。若い娘とはいえ腕の確かな狩人にかかれば、大の男を抱え上げることも可能らしい。

「あぁ、せっかくの御髪もぱさぱさになって」

「ただの白髪なんだから気にしないでよ」

「”ただの白髪”はこんなに真っ白のままになりませんよ、もう」

 せっかく雪の色なのに、と言いながら、娘は厨に立って支度を始める。これも自分だけでは必要なかったものだ。

「ねえ君、もう彼岸だよ。いつまでここにいるの」

「白神様に食べていただくまでですよ」

 その答えは、晩秋に突然やってきた時から変わらない。

 あの時は濡れ落葉の上にちょんと座って、真っ白な着物に、黒すぐりみたいな髪と瞳がよく映えていたっけ。

 娘は「雨を下さる白神様への供物です」と名乗った。

 間に合ってます、と何度断っても微動だにしない。家の前で腐られると色々と面倒だから、軒先だけ貸していたらいつの間にかしっかり自活した上に、こっちの面倒まで見られていた。

 そう、自分の腕で生きていける子なんだ。

「ねえ」

「何ですか、好き嫌いは聞きませんよ」

「俺、彼岸過ぎにはもういないよ」

 日に焼けた腕が急に止まって、匙から味噌がぼたりと落ちる。

「あ、調味料は使い切ってね。俺いらないから」

「えぁ、あの、」

「前のシラカミサマの横領がわかってね。君みたいな供物の件も含めて、罪状がようやっと確定したんだ。だから調査役の俺の役目もお終い」

 神霊にも序列があって格差がある。ヒトの世じゃ様づけされたって、実体は木っ端役人と同じなんだ。

「でも」

「言ったよね、俺は行き場のない君に屋根を貸しただけ。今からなら冷え込む前に他の集落に移れるだろうし、その腕があれば流浪でもある程度やっていけるでしょ」

 こちらを向かないのが幸いだった。こんなこと目の前にして言える自信はちょっとなかった。

「次のシラカミが来るかはわからない。ヒトの世の激変のおかげで、こっちも方針転換が著しいんだ」

「私が食べていただきたいのは白神様だけですっ」

 食べていただかなくては困ります、と娘は肩を震わせる。

「わたくしは白神様への捧げものとして選ばれて以来、何も食べずに眠ったことが一度たりとありません。人々が餓えで死んでいく年も、わたくしは痩せて食い出のない供物になってはいけないと、毎日くちくなるほど食べさせてもらえました」

 神のため。その一言で特権を許す風習がヒトの世にはある。供物となることは名誉なのだと、教えられ続ければそれはその者にとって自明の理となる。

「夏に蚊遣りの草さえ残らなくて、土までかじる幼子も大勢いました。それでも私は白神様への供物なのだからと、毎日きちんと食べられるものが出たんです。ただ、神の一部となる役目であったために」

 それは言い換えれば、食われない供物はただのヒト――特権を貪っただけの強者として恨みを買うということ。

 互いに蚊遣り草よりも風前の立場。だからこそ続いた平行線を、終わらせなくてはならなかった。

今日のお題は「蚊やり豚」です。