プロローグ 駆け込み乗車にご注意を

   

 ホイッスルの音が響く中、佐藤梨々は閉まりかけたドアに駆け込んだ。
 刈り込んだ短髪よりも、私立中等部の制服の方がひらり翻る。
 今日は学校からの帰りが遅くなってしまった。乗られなければバスに間に合わない電車に、なんとか乗られたことに安堵しつつ息を整える。

 そうして下を向いていたから、彼女は違和感に気づかない。

 足下が動いていないことに。
 ゴトゴトと揺れる音がしないことに。
 周囲が染めたように暗く、天井の数点からまばゆい光が落ちていることに。

 わぅん、と耳慣れぬ音を聞き、梨々は初めて顔を上げる。

「……え?」

 がやわやわや。がやわやわや。

 音を立てていたのは、詰め込まれたような人影の群である。誰もが一点を見るように正面を、梨々の方を向いている。まるで舞台に現れた主役を注視する目、光る目の群。
 何がなんだかわからないが――目の群からなめ回すような視線を感じ、梨々の顔が険しくなる。

 カーンッ!

 重さを感じさせる高い音――木槌の音だが梨々にはわからない――が響き、背後でがちゃんがちゃんと音が起こる。振り向けば、緻密な文様の描かれた壁の上、側面にぽつぽつと模様の刻まれた大きな筒状のものがいくつも並び、それぞれに回転しているところである。

 わやわやと聞き取れぬ外国語のような音が耳に届く中、左からひとつずつ模様が消え空白になっていく。
 空白が増える度、視線が怖気の増すものに変わっていく。見下すなど生ぬるい、家畜か物品でも値踏みするごとく、胸と尻を集中してなめ回す視線たち。全身が粟立ち、彼女は振り払うように右腕を振って叫んだ。

「いい加減に――ッ?!」

 パァン

 突然の湿った音に、梨々は続く言葉を忘れる。どっと肩口から熱が溢れ、脇から腹をしとどに濡らす。痛みより早く、絶叫が喉をつく。とっさに手で押さえたが、手指の隙間から熱は逃げていく。

 いつの間にか、目前に人影が立っている。長い黒髪を房のように束ね、スーツに似た黒い上下をまとう若い男。その腕に刃の長いナイフを握り、赤い滴をこぼしている。
 同じく赤い口が開く。

「うるさいなあ」

 眇めた瞳は茶色がかった淡緑色。近づいて気づくその色に、彼女は一時惚けたように見入る。

 湿った肉片が咥内に入り込んだのは次の瞬間である。

 反射で後ずさろうとする少女の頭を片手で固定し、肉片は悠々とあらゆる粘膜を撫でさする。上顎を舐め、歯列をたどり、頬の内に刻まれた筋をこすって、彼女の肉塊の上で蠢く。それは甘いものの何もない、作業のような蹂躙である。

 梨々の頭は混乱している。訳の分からない悪夢はいつまでも覚めることなく、痛みは頭蓋にまで響く。浴びせられる視線は強く、叫び声はなお喉を駆ける。息苦しい口内は水音が強く響き、肩は熱が少しずつ失われ、視界も暗さを増していく。

 ――死ぬのかもしれない……

 それは、奇妙に彼女を安堵させる。
 同時に、勝手気ままと動き回る肉塊に、かっと腹の奥が煮えたぎる。
 烈火のごとき瞬発力は、間をおかずひとつの解をたたき出す。

「……ッ?!」

 すなわち、肉片をぶち切らんばかりの噛みつき。
 意識の絶える寸前、渾身の一撃であった。

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