【100日100話】023 知れぬ人、知らぬ名を呼ぶ

   

「ただの薬草園だぞ?」

思わず言葉を返したのは、持ち主である薬師にとってあまりに意外な言葉だったからだ。

知れぬ人、知らぬ名を呼ぶ

「きれいだわ、懐かしい花がたくさん」

にこにこと笑う老女はそうくり返す。

椅子が当たり前の世の中で、わざわざ脚をたたんで床で暮らし、そのためにひざを傷めたその老女は、昔から少しばかり子供のようなところがあったらしい。

「リンドーでしょう」

「腹の薬な」

「センブリ、かわいくて好き」

「それも腹のだ」

ある時は野ばらの生け垣、またある時は林檎の木の陰。ふらりとどこにでもさまよい出て、他人の庭に入り込んではくつろいでいる。

人々は彼女を、”野良猫の類友”と呼んだ。

「ワレモコーだわ、見事な花ね」

「根が痛み止めになる」

「あら、オコメ」

「かゆみ止めの薬湯に……おい、いい加減にしろ」

花から花へ、ひらひらと動き回る老体は、ひざを傷めているとは思えないほどだ。

とはいえここはただの庭でなく、薬師の畑であり仕事場であり財である。下手に踏み荒らされては薬作りに差し障る。

迷い込んだ猫をつまみ出すように、薬師が老女の腕をとろうとした瞬間、ひょいとその場にかがまれて薬師の手は空を切った。

「私これがいちばん好き」

澄んだ声は無邪気さとともに、どこか郷愁を帯びて響く。

――ある日突然現れ、記憶がないのだと笑ったかつての老女を薬師は知っている。それからの日々も見知っている。

だが、当たり前にひざを折って過ごす彼女のそれまでを薬師は知らない。この世の誰も、記憶がないと言う老女の昔日を知らない。

「ねえ、今年もきれいよ」

彼女の視線の先には、せき止めの薬草が五弁の花を咲かせている。

それまで根にしか用のなかったその草の、あざやかな紫に薬師は背を震わせた。

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